Mag-log in私は化粧室へ向かうふりをして、少しだけ人の波から外れた。
古い柱時計の針が動く音だけが、必要以上に大きく聞こえた。 壁際に置かれた観葉植物の葉が、空調でかすかに揺れている。磨かれた床には、シャンデリアの光が細かく落ちていた。「栞」 呼ばれた名前に、足が止まる。 もう、その声で振り返る必要はない。 そう思ったのに、体は先に反応してしまった。 振り返ると、桐生司が立っていた。 会場の中より、少し顔色が悪い。胸元のタイは乱れていない。髪も整っている。そういうところだけは、昔から崩れなかった。「少し、話せるか」 司は答えを探すように、廊下の床へ目を落とした。「話すことはないと思います」 すぐに返した。 司は唇を引き結ぶ。昔なら、この間に私のほうが耐えられなくなって、先に言葉を足していた。 今は、黙って待てた。「今日のことは……すまなかった」「今日の、どのことですか」救護班が到着するまで、私は一歩も動かなかった。 背後で金具が鳴り、律が階段の下で止まった。 動かなかった、というより、動けなかったのかもしれない。 階段の一段目に座り込んだ未央が、涙を浮かべてこちらを見上げている。白いワンピースの裾が床に広がり、片方の靴だけが少し離れた場所に転がっていた。 三年前と同じ光景だった。 倒れた未央。 こちらを見る周囲の目。 喉元に詰まる、違う、という言葉。 けれど、三年前と違うものもあった。 会場スタッフの無線機が鳴る音。 階段横に設置された公式カメラ。 相良さんの胸元の記録用ピンカメラ。 そして、私の隣に、前へ出すぎないまま立つ律の気配。「押されたの」 未央が、小さく言った。「お姉ちゃんが、また……」 未央の声は小さいのに、近くの人が何人も振り返った。 私は口の中に溜まった言葉を一度飲み込んだ。「私は触れてません」 未央の涙が、一瞬だけ止まった。 私は続けない。 誰が見ていたとか、三年前もそうだったとか、あなたが自分で倒れたんでしょうとか、言いたいことは口の中にいくつもあった。 でも、それをここで言えば、また場面が未央の作った形になる。「救護をお願いします」 私は会場スタッフへ向き直った。「それから、事故報告の担当者を呼んでください。私はこの場から離れません。事情確認にも応じます」 スタッフの若い男性は、額に汗を滲ませながら頷いた。「か、確認します。救護班、まもなくです。関係者の皆様は、階段周辺から少し離れてください」 その声で、周囲の人たちが少しずつ動き始める。 スマートフォンを構えた人もいた。相良さんが数人に近づき、穏やかな声で「公式の確認が入るまで撮影と拡散はお控えください」と告げている。 強く取り上げるわけではない。 怒鳴るわけでもない。 でも、言われた側はスマートフォンを下ろした。 榊家の相良さん、と
私は後ろへ下がらず、両手を見える位置に上げた。 窓際のカーテンが、誰にも触れられないまま細く揺れた。「触れないでください」 声は震えた。 でも、届いた。 未央の指が空を掴む。 その直後だった。 彼女は自分の足元を見ないまま、体を横へ倒した。 悲鳴が上がる。 未央の体が、階段の一段目にぶつかった。大きく転がったわけではない。けれど、膝を打ち、手すりに肩を擦らせ、白いワンピースの裾が乱れる。 彼女は床に座り込んだまま、震える手で自分の腕を押さえた。 そして、涙の滲んだ目で私を見上げた。「どうして……」 声は、昔と同じだった。 小さく、震えて、周りに届く声。「どうして、また私を押したの」 ロビーの空気が、一瞬で固まった。 近くにいた医療関係者らしき女性が、反射的に駆け寄ろうとして、会場スタッフに制された。「救護班が向かっています。動かさないでください」 スタッフの声は震えていたが、手順は間違っていなかった。 未央は床に座り込んだまま、私から目を逸らさない。膝を押さえる手の位置が不自然に高い。痛めた場所を庇う手ではなく、見せたい場所を選んでいる手だった。 それに気づいた自分が、少し嫌になる。 人が倒れているのに、そんな観察をしている。 でも、それをしなければ、また奪われる。 誰かのスマートフォンが上がる。 司が青ざめた顔で立ち尽くしている。 律は私の前には出なかった。車椅子の位置を少し変え、こちらへ向かう人の流れだけを止めた。 今は泣くところではない。 私は瞬きをして、視界を戻した。 相良さんが一歩前へ出た。 私は自分で言った。「救護を優先してください」 声は固かった。「それから、会場の公式映像と、階段付近の入退館ログを保全してください」 未央の泣き声が、そこで一瞬止まった。◇ 三年前なら、「違う」と叫んで
未央は声を落とした。「昨日は少し混乱していて。司さんとも、ちゃんと話したくて。お姉ちゃんにも、私……」 未央は周囲を見回し、声をさらに落とした。「その呼び方はやめてください」 未央の口が止まる。 周囲の数人が、こちらを見た。 未央はそれを確認してから、わざと小さく震えたように見せた。 ロビーの話し声が少し遠のいた。「まだ、そんな言い方をするの」「します」「私たち、姉妹だったじゃない」「あなたが私を陥れるまでは」 未央の口元から笑みが消えた。 けれどすぐに、潤んだ目へ戻る。 早い。 三年前、誰もこの速さを見ていなかった。「ひどい」 未央は小さく呟き、後ろへ一歩下がった。 階段の方へ。 相良さんが動く。「未央様、そちらは来賓導線じゃありません」「近づかないで」 声が少し大きくなった。 周囲の視線が集まる。 未央は、それを待っていたように見えた。「私、ただ話したいだけなのに。お姉ちゃんが、また私を悪者にしようとして」「未央」 司が低く呼んだ。 未央は彼を見た。 その顔に、怒りとも悲しみともつかないものが浮かぶ。「司さんまで、そっちに行くの?」「落ち着いて」「落ち着いてるわ」 嘘だった。 でも、未央の声は泣き声の形をしている。周囲からは、ひどく傷ついた女性に見えるだろう。 私はゆっくり息を吸った。 階段。 人の視線。 未央の涙。 司の沈黙。 三年前と同じ材料が、ここに揃っていく。 違うのは、私がそれを見ていることだった。「未央さん」 私は声を抑えた。「今この場で、あなたと二人きりにはなりません。話があるなら、会場スタッフ同席で別室を取ります。移動は階段じゃなく、エレベーターを使います」「どうしてそんなに、私を
「あなたは、本当に葵に似てきました」 名前を聞いた瞬間、返事が遅れた。 律の車椅子が止まり、場のざわめきが一段低くなった。 でも、ここで揺れれば、相手の思う通りになる。「褒めていらっしゃるんですか」「さあ。葵本人は、あまり喜ばないでしょう」「葵さんの気持ちは、葵さんに聞きます」 康生の笑みが、少しだけ薄くなった。「できるといいですね」 彼はそれだけ言い、ロビーの奥へ離れていった。 背中を見送りながら、私はバッグの持ち手を握り直した。 康生の背中が人混みに消えるまで、私はバッグの持ち手を離せなかった。◇ 報道向けの撮影場所へ案内される人、別室の懇談へ向かう人、ロビーで名刺を交わす人。人の流れが細かく分かれ、階段の前が一瞬だけ混み合う。 相良さんが、私の半歩後ろに立った。「右側から行きます」 私は頷き、手元の資料をバッグに入れた。 その時だった。「栞」 懐かしい呼び方が、横から刺さる。 司だった。 黒いスーツに、桐生家の名札。顔色は悪い。目の下に薄い影がある。「今、話せるか」「話す内容によります」 司は唇を引き結んだ。「未央が来てる」 分かっていた。 司の言葉を聞き、バッグの持ち手を握り直した。「どこに」「見失った。さっき、二階の控室側へ」 相良さんが、すぐに無線で会場警備へ確認を入れる。大きな声は出さない。ロビーの騒ぎに紛れるように、短く要点だけを伝えている。「なぜ、あなたがそれを私に言うんですか」 司は答えるまでに一拍かかった。「止めたかった」「誰を」「未央を」「私じゃなく?」 司の顔が少し歪む。「……三年前なら、そう言えなかった」 私は返事をせず、相良さんを見た。「会場スタッフに伝えてください。私に直接近づかず、警備側へ」「分かった」
開会の挨拶が始まると、ロビーのざわめきは少しずつ小さくなった。 窓際の席だけ、空調が強かった。 壇上では、榊グループの医療支援事業について、担当役員が説明している。支援金の流れ、対象施設の選定基準、監査体制。どれも、派手さはない。けれど、数字と手続きが並ぶたび、青嶺療養院の院長の表情が硬くなるのが見えた。 私は前方の席に座り、配布資料を膝の上で開いていた。 葵さんの名前は、どこにもない。 当たり前だ。ここは報告会であって、誰かの病室を暴く場所ではない。 紙の白さが少し苦しかった。 質疑応答では、支援先施設の透明性について質問が出た。 報道関係者の一人が、マイクを受け取る。「長期療養施設では、ご家族との面会制限や外部連絡の扱いが問題になることもあります。支援企業として、榊グループはどこまで確認されるのでしょうか」 質問が終わると、松浦院長が手元のペンを止めた。 予定された質問ではない。 けれど、悪意のある聞き方でもない。 担当役員は資料を見ずに答えた。「医療判断そのものには介入しません。ただし、支援契約上、面会制度、苦情受付窓口、記録保全体制などの運用は確認対象です。個別の患者様の情報じゃなく、制度として適切に機能しているかを見ます」 私は、膝の上の資料を軽く握った。 個人情報には踏み込まない。 でも、制度は見る。 私は資料の角を親指で押さえた。 青嶺療養院の松浦院長は、拍手の中で顔を動かさなかった。 ただ、手元のペンだけが、一度、資料の端を強く押した。 白い紙に、小さな点が残る。 その点を見て、私は思った。 少なくとも、この話題を気にしているようには見えた。「……今日は、やめますか」 隣の律が、小さく言った。「帰ったら、ここで何があったか、ずっと考えてしまいます」 律は私を見て、それから壇上へ視線を戻した。車椅子は、私の席のすぐ隣にあった。 資料を握っていた手が少し緩んだ。 式次第の後半、
「返事は」 律に聞かれ、私は首を横に振った。 卓上マイクの影が、資料の端に細く落ちていた。「返しません。もう、話すことはありませんから」 自分でも、声が硬くなったのが分かった。 律はそれ以上言わなかった。 今は、それでよかった。 報告会当日。 会場ロビーには、すでに多くの人がいた。医療関係者、企業の役員、報道関係者、支援団体の代表。名札の紐が胸元で揺れ、低い話し声が吹き抜けに反響している。 階段は、想像していたより広かった。 白い石の段。中央に手すり。踊り場には、大きな花器が置かれている。 三年前の如月家の階段とは違う。 違うのに、足の裏が少し冷えた。 入口近くで、受付係が私の名札を確認した。「朝霧栞様。榊様ご同伴で承っております」 如月ではない。榊でもない。 その呼び方が、今はありがたかった。 私は名札を受け取り、胸元へ留める。小さなプラスチックの板なのに、留めた胸元にかすかな重みを感じた。 会場の奥では、青嶺療養院の資料展示が準備されていた。高齢者リハビリ、長期療養支援、家族面談室の改善計画。写真はどれも明るく、白いカーテンと整った花瓶が写っている。 そこに葵さんがいるかもしれない。 そう考えた瞬間、展示パネルの笑顔が少しだけ遠くなった。「朝霧様」 振り返ると、灰色のスーツを着た男性が立っていた。胸元の名札には、青嶺療養院 院長 松浦和臣、とある。「本日はご出席ありがとうございます」「こちらこそ」 無難に返す。 松浦院長の目は、私の顔に一瞬だけ止まり、すぐに律へ移った。「榊様にも、長年のご支援を」「支援先の安全管理について、後ほど確認させていただきます」 律の声は穏やかだった。 けれど、松浦院長の返事が一拍遅れた。「もちろんです。可能な範囲で」 可能な範囲。 その言葉を、私は覚えておくことにした。 この人は、質問される前から答えない範囲を決めている。
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし